• 2019/02/12
  • 未分類
仏教としあわせ

連続研修会天真寺にて、テーマを「苦としあわせ」とした千葉組連続研修会が開催されました。

連続研修会では、はじめに連研受講生による正信偈のお勤めよりはじまります。門信徒Wさんが調声をなされ、連研受講生のメンバーによって巡讃がお勤まりになりました。
連続研修会

今回のテーマは「苦としあわせ」です。講師は、西原龍哉でした、以前仏教情報センターにて「しあわせ」をテーマにして講話をした時にはブータンでの経験をお話しさせていただきました。

 

 

今回は、仏教での「しあわせ」について、一般的な幸せ・最近話題になっている幸福学・仏教のしあわせの視点お話しをさせて頂きました。物質的な欲望を求めても満たされることを知らない私、求めていた幸せに縛られている私の姿があります。親鸞聖人は、我が身であります。親鸞聖人は、正像末和讃にて、「無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す 愛憎違順することは 高峯岳山にことならず」。『歎異抄』にて、「まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか」。というお心が伝えられております。最後には、恩師・浅井成海先生のお話をさせて頂きました、尊きご縁となりました。

只今、昔の資料を整理しております。その中に、梯實圓和上の寺院・廣台寺様にお聴聞にお伺いした時に頂戴した寺報「道標」を発見しました。その中に、よく読ませて頂いています井上先生の探求社「よろこび」の文章が「しあわせ」をテーマとしておりましたので、紹介させて頂きます。

■まことの幸せを 『よろこび』より
浄土真宗とは、人間の生き方である。お釈迦様が「人間が生きているということは、いつも何かを求めていることである。何を求めているかで、その人間の価値がきまる」とおっしゃったそうですが、私たちは何を求めているでしょう。一口で言えば、それは幸せでしょう。だが幸せとは何かを考えてみれば、自己の五欲の満足なのではないでしょうか。
 お釈迦様は、一国の王子様にお生まれになりました。富も、愛も、若さも、権力も、一般に幸せとうらやましがられるものは、生まれながらに身につけていらっしゃいました。ですが、お釈迦様は29才の時、それらのすべてを捨てて、出家をされた。10万円の金を落としてさえも、大騒ぎする私たちに比べて、それがどんなに大変なことだったかを、しみじみと思ってみなければなりません。その理由を経典には簡単に、しかも重々しく、
老病死を見て世の非常を悟り・・・・
と記してあります。お釈迦様は、かりそめの幸せではなく、老病死にも滅ぼされない真実の幸せを求めて出家されたのです。
 親鸞聖人の主著である教行信証には、真実という言葉が、百十数回も出てくると聞いたことがあります。だから浄土真宗とは、真実を求めて、真実に救われて生かされる人間の生き方をいうのです。真実とは光明無量、寿命無量の阿弥陀仏のお悟りの全体のことであります。
 人間に大切なものが二つあります。それは身体と心です。身体は皆さんがとても大切にされます。おしゃれをしたり、病院に行ったり、ビタミン剤を飲んだりしてです。だが、見えない心に対しては、それを粗末にしている人が多いのではないでしょうか。しかし、心ほど恐ろしいものはありません。人間は自分の心で自分が苦しむのです。仏教では、自己の心身を苦しめるものに、煩悩という名をつけています。本園の広島別院の原爆忌法要に参りました。8月5日夜、平和公園の供養塔の前で、厳かで、盛大なご法要がありまして、私がご法話をしましたが、その中で次のような一くだりを申しました。
「国連の事務総長の発表によりますと、いま地球上に約四万発の核弾頭(水爆、原爆の爆発装置)があり、これは広島や長崎に落とされた原爆の百万発分の威力があり、これを全部破滅させると、40数億人の世界全人類を20回全滅させることができるということであります。このような悪魔の武器を作り出したのは、人間の心の底にひそむエゴイズム(いよいよになったら、自分だけが可愛いという思い)です。個人には個人のエゴがあり、国には国のエゴイズムがあります。このみにくいエゴイズムは、レントゲンでも、電子顕微鏡でも絶対に見えないのです。見えない悪い心のはたらきが、地球の全人類を殺してしまう兵器を作り出させることを思う時、私はもっと心の大切さに注目すべきであると考えます」。
体でする経験はすべて有限なものであります。うどんがどんなにおいしいからといっても、百杯も続けて食べられない。温泉がいくらよいからといって、百時間も続けて入っていることはできないのです。それに比べて、心は無限を味わうことができます。 時々、眼にも見えない仏様や浄土なんかは無いんだ等と思っている人がいますが、それは有限な体の眼で、無限の仏様やお浄土は見えないんだと言うことを知らない人です。 無限なるものに触れてゆけるのは、心の世界だけなのです。前述のように、心は恐ろしいものではあるが、また心こそみ仏様にお会いできる大切な場所なのです。 人間の幸せは、わが思いを遂げることでありました。 それに反して、親鸞聖人の教えて下さった真実の生き方とは、如来様の本願が私の心に届いてくださって、私が如来様の願いに生かされるようになり、そこに無上の安らぎと悦びを得られるようになることなのです。
本願を信じ念仏を申さば仏になる
本願とは名号が如来のいかなる御心によって成就せられたかを示すものです。名号とは阿弥陀仏の全生命の結晶であり、真実そのもので、私に来てくださる生き仏様です。その本願の名号一つに満足させて頂けるようになったことを信心獲得したといいます。その時に、私たちは不滅の生命の持ち主にして頂けるのです。
 

「しあわせ」というテーマ一つでありましても、さまざまなとられ方があります。答えは一つですが。