天真寺通信

天真寺

宗教の中心は、人間の宗教経験(連続履修者研修会)

連研
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天真寺にて「連続研修会履修者研修会」が開催されました。ご講師は網代豊和先生、学生時代ともにかけがえのない時間を過ごした法友です。網代先生のアツい講義に聴講生たちはインパクトを受けました。講義の中にて、私が印象に残っているのは、鈴木大拙先生『妙好人の世界』から引用されたお言葉であります。
「宗教の中心は、人間の宗教経験である。宗教の学問や教学は、宗教経験の基礎の上に打ち立てられている。学問や教学の基には宗教経験があるので、従って学問や教学は宗教経験からでてくるものであると。それを逆にしては駄目。逆にすると学問や教学はいくら精細でも宗教の本質は出て来ない。先ず宗教経験を大切にするという」というお言葉です。
手を合わせる、仏さまを仰ぎ見る、お念仏を申す、ご法事をつとめる、お葬儀を執り行う・・・あらゆる宗教体験を通して、その背景にあるなぜ?をたずねていく。連研にて、ある方が「浄土真宗の信心は聞即信です」とお話しをして学問や教学の答えを説明をしていましたが、よく聞くことであります。そうではなく、あらゆる宗教体験をなさしめたハタラキに尋ねていく。なぜ、南无阿弥陀仏と念仏を申すようになったのか。
一昨年、声明コンサート「第3回仏教音楽コンサート 聲奏一如」に参加させて頂いた。バンドや弦楽四重奏による演奏。そして、日蓮 真言 浄土 真宗 曹洞 臨済6宗派12人がそれぞれの宗派の声明をお勤めするコーナーがありました。一人2分間持ち時間があり、浄土真宗の担当は私は、『南无阿弥陀仏』のお念仏と『恩徳讃』をお勤めしました。
お勤めが終わると、ぶっちゃけ寺に出演している浄土宗井上僧侶が、「西原さんが念仏を称えた瞬間、前の若い女性が涙を流していた」と教えてくれました。コンサート終了後、観客の皆様をお見送りする時、先程の女性に、「さっき涙を流していらっしゃいましたね、どうかされたのですか」と井上僧侶が質問すると、「実は、南无阿弥陀仏を聞いた時「おじいちゃん&おばあちゃん」を思いだしたんです。出身は富山ですが、田舎に帰ると、いつもあたたかく念仏を称えていた。祖父母が迎えてくれた。手作り料理、いろんな所へ連れて行った。その後ろ姿を思い出したら涙があふれてきた。ナンマンダブですね。」と。祖父母が称えたお念仏の声が、孫さんに届いたのです。仏様に手を合わせるまで、お念仏を申すまでには、さまざまなご仏縁が重なっています。浄土に生まれた先人方が、釈迦様が人々教化されたよう、私達の世界に帰ってきて下さり、導いて下さっている。おもえば、私が称えているなもあみだぶつの念仏も自分の手柄ではなかった。仏様が「お前の側に居るぞ」と読んで下さっている声だったなぁと教えて頂きました。
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いろいろな先生から宗教の話を聞いてきましたが、どうも理論が多いんですね。例えば浄土真宗の話になりますと、旧来からの言葉を使って言うものですからむつかしくて、よくわからないんです。阿弥陀仏というもの、浄土ということ、また浄土へ往生するということ、あるいは救いということ、大智とか大悲とかいうことをよく聞かされました。
 ところが今までの理屈の上の説明ではよくわからないんですね。阿弥陀様と言われても、それは何処に居られるんだということになりますね。浄土ということもそうですね。浄土は何処にあるのか。またその浄土へ往生するとはどういうことか。死んでから往くといっても、死後それがどうしてわかるのかと、次から次へと疑問が出て来て、従来の説明ではどうもわからんことが多かったのです。
 とにかく宗教についてはよくわからぬままに(鈴木)大拙先生の講義を聞いていました。一番印象深かったのは、先生は講義の中で人間の宗教経験と言うことをやかましくいわれるんです。人間の宗教経験が宗教の中心なんだと言われるんです。仏教もキリスト教も、高度な宗教の基礎にはそれぞれの宗教経験がある、それが宗教の核になっていると。それで宗教の学問や教学は、宗教経験の基礎の上に打ち立てられているのであって、学問や教学の基には宗教経験があるので、従って学問や教学は宗教経験からでてくるものであると。それを逆にしては駄目なんだ。逆にすると学問や教学はいくら精細でも宗教の本質は出て来ない。先ず宗教経験を得ると、阿弥陀仏も、浄土も、浄土往生も、信心獲得ということも、救済と言うこともみなわかってくる。
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