天真寺通信

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極重悪人唯称仏

天ちゃん
本日は仏教壮年会主催の「正信偈に学ぶ」の日でした。講師は、京都よりお越しの名種木乃実先生です。『正信偈』の源信和尚を讃える偈文を学びました。源信和尚にて思い出されるのは、恩師浅井成海先生の著書の中にある文章です。
◎私こそが極重の悪人
佐々木久子先生。雑誌「酒」の編集をしておられたかたで、安芸門徒として知られています。お母さんがときどき「京都の御本山にお参りに連れて行ってくれないかな」とおっしゃるそうです。しかし佐々木先生は、このお母さんの言葉を聞き流し、自分のことばかりに一生懸命になって、仕事をされていたといわれます。そして、八十を過ぎた母が恍惚の人になって、母の願いの中に私が生かされていたにもかかわらず、その母の願いを踏みにじって、母のささやかな希望を忘れて、自分のことばかりを考えていた私でありましたと、二十歳の学生の前で告白なさっています。また、先生がこれまでに書かれたエッセイを読ませていただくと、あまりに看病がつらいので、お母さんを殺して自分も死にたいと、何度も思ったそうです。そして、お母さんが亡くなられたお通夜の席での「正信偈」のお勤めがありました。その「正信偈」のお勤めのなかで、源信僧都を讃える「極重悪人唯称仏、我亦在彼摂取中、煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我」というところにさしかかったときに、「今まではそれは親鸞聖人ご自身の救いが述べられているのだと、そういうように受けとめていた。ところが母を送り、そして今、母との別れのときに、そうではなくて佐々木久子という、私の救いが語られている。親鸞聖人自身の救いを語りながら、じつは佐々木久子の救いが語られているのだと気づかせていただきました。「極重悪人」こそ私だということを、そしてその私の救いが語られているということを、知らされました」と、このような感銘深い体験を書いておられます。

源信和尚はご自身のことを「予がごとき頑魯のもの、あにあへてせんや」と、「私 (源信) のようなかたくなで愚かな者」と見つめられ、地獄の世界とは遠くにあるのではなく自分自身が造っている世界であると示されました。そして「極重悪人唯称仏」の「極重悪人」とは、自分自身のことであると。よく、いらいらしている人をみて「それは瞋恚の心の表れだよ」と評する人。「最近、突然死をされる方が多い」と話せば「それは前からあること」と語る人。それらは、事実を語っているだけで、我が身のことになっていない評論家が多い。「極重悪人とは○○さん」だという他人の話という認識ではなく、仏様に照らされた私自身の姿でありました、その私をお救い下さる仏様が阿弥陀如来様ですねと、頭が下がっていく世界であります。大いなる慈悲の世界にであえばこそ、はじめて愚かな自分自身を自分が認めることができるのです。
天真寺通信「予がごとき頑魯のもの」
https://tenshin.or.jp/tenshinji-tushin/%E4%BA%88%E3%81%8C%E5%A6%82%E3%81%8D%E9%A0%91%E8%B7%AF%E3%81%AE%E8%80%85/
天真寺通信「源信堂」
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