天真寺通信

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自然のはたらきの中に生かされている私

康善寺
なかなか、資料整理が進まない。以前、福島県にある災害対策本部にて法話ボランティアに寄せていた時、お隣の大寺院・無為山康善寺様に参拝しました。康善寺様は、黒岩にあった秀安寺がその前身。上杉家臣で福島代官であった古河善兵衛重吉が現在地に移し、故郷信州の康楽寺と自らの名前から一字ずつとって康善寺と命名した、と言われる由緒のあるお寺さんです。先日、長野・康楽寺様に常例布教のご縁があったので、不思議なご縁だなあと感激しました。
お寺の本堂に置いてあった「月のことば780」が印象に残りました。
先日、大隅良典先生がノーベル医学生理学賞を受賞されました。細胞が不要なタンパク質を分解する仕組み「オートファジー(自食作用)」を解明された先生の研究が評価されました。先生が創り出した研究成果ではなく、私達の身体の中にすでに備わっている仕組みを解明されました。お釈迦様は、仏法を説かれましたが、それらも創り出されたものではなく、もともとあった真理を悟られ明らかにされたのです。その真理をお釈迦様は「阿弥陀さまの救い」として説いて下さいました。「なにがあっても、必ずあなたを救うぞ」という阿弥陀仏という仏様がいらっしゃる。しかし、その声に耳を傾けようとせずにいる私達に、「それでも追いかけてでも、必ず救う」と誓われた阿弥陀仏がおられることをお示しになりました。そして、私達は、遠い昔より願われたいたことに気付かされます。
という文章です。
『私が真実です』というお話しをする宗教がありますが、親鸞聖人は「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』)と、 「なにもごとも真実なるものはない、虚仮である」と受け取られました。恩師・福間先生から「如是我聞」のお話を伺いました。仏教では、「如是我聞」が基礎である。お釈迦様は「かくの如く仰いました」ではなく「このようにお聞かせ頂きました」、「お釈迦様の教えは広大無辺ですが、私が頂いたところによりますと」という姿勢であります。ついつい、あいつはこういう人間だ、ああいう人間だと型にはめて見ようとするのがその見方が「迷い」であります。迷いとは、わかっていないのに、わかっていると思うこと。仏法に出遇わせて頂く中、私達は、わかっていないことに気付くことを、法に合っていくことであります。阿弥陀さまのハタラキを「法則」としてお話しもされます。寺に参らない私が寺に参る、この口から念仏が出てきて下さる、仏さまに頭が下がる身にお育てを頂いているこのハタラキに阿弥陀さまのお慈悲をお聞かせ頂きます。
そんなことを思いながら、文章を打ち込んでいるが、大掃除はなかなか進まない(´・ω・`)これを現実逃避というのだろう(^_^)

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