• 2018/06/17
  • 法話
失って気づく本当のしあわせ(福間義朝先生法話)

天ちゃん
毎日お聴聞の日々であります。今日は、恩師福間義朝先生が寄稿された赤光の中から「本当のしあわせ」について拝読しております。
こんなお話しです。
大きな湖に住んでいた魚は自分がどのような世界に生きているのか判らなかった。しかし、ある日つり上げられた時、空中でバタバタもがきながら広い静かな湖を見ることができた。今まで自分が如何にすばらしい所に住んでいたのかを知ったと。これは 苦しみということの意味を示した説話です。

私たち、人生において、苦しみに遭ったとき、何もなかった日常の幸せというものを思い知らされます。風邪にかかって熱でうなされ苦しむ時、平生の当たり前の体調が如何に有り難いことであったのか、この熱さえ取れればもう他には何もいらないとさえ思うものです。しかし、病が治るとすぐにそのことは忘れ、また日常の不満の中に埋没してしまいます。

お経の中に「知足・足るを知る」という言葉があります。これは、当たり前の中に幸せ・喜びを知るということ。私たちはともすれば、もっとあれば・もっとこうなれば幸せになれると向こう側に幸せを求めて走り続けます。もっとお金があれば・もっとみんなが私を認めてくれれば・もっと出世すればと、ただ今を見ないで彼方を見続けて生きてゆきがちです。しかしそこに苦しみというものが立ち現れます。今まで見向きもしなかったことが失われる苦しみです。当たり前だった健康、当たり前であった家族、当たり前であった平穏無事、その時初めて当たり前の有り難さが知らされてゆきます。人生様々な苦しみがあるからこそ「知足」足るをしる・当たり前の有り難さを学んでゆきます。幸せとは 向こうにあるものでは無く、ただ今の足下にあるということに気付いてゆくこと、幸せとはなるものではなく気付いてゆくもの、このことを「知足」という言葉は教えていると思います。人生もし苦しみというものが無かったなら同時に幸せというものも無いということになります。苦しみにあうごとに、そこに仏法の教えがあれば、幸せ・感謝ということがますます知らされてきます。


大きな湖に住んでいた魚はその有り難さに気付かなかったが、最後釣り上げられたとき、初めて今までの恵みを知らされます。失った時にそのものの有り難さを知らされる しかし仏法は今その有り難さを教えてくれます。


北海道の坊守・鈴木章子さんは、お念仏を喜ばれながらも四十七歳で夫と四人の子ども達を残して癌でこの境涯を去りました。しかしこの方は、生前亡くなられる直前まで仏法に出あった喜びを詩にされ、その詩集は多くの人びとに読まれて彼女の法悦を伝えました。

その詩集の中に次のような詩があります。

今 私が 主人が 子供達が

この茶の間で しゃべり 笑っている
何千回とくり返された情景が 今 不思議で
あしたにでも 壊れてしまいそうで だきしめたくなります
胸にビシビシと響く言葉であります、なくなってから気づく本当に大切なもの。当たり前生活の中で、感謝する心を忘れて、横暴な振る舞いをしてしまう自分がいます。しかし、その時には手遅れです。そうならないように、一日一日丁寧に生きることを心がけて生きていきたいものです。