天真寺通信

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仏教情報センター「仏教ライフ」

(社団法人)仏教情報センターの季刊誌「仏教ライフ」正月号を浄土真宗本願寺派が担当することになりました。主に、宗派を超えた僧侶達が無料電話相談をしている団体です。
打ち合わせをしていると、先輩僧侶による「今号は西原くんが編集長で」という軽い一言により、担当することになりました。といいましても、担当分けしてありますので、特段違った仕事はありませんが、今回は、主に特集号を担当することになりました。
そこで、昔の資料を探していると、みつからない、みつからない・・・
昔、寄稿した法話原稿が出てきました。どこかで書いた記憶があるようなないような、自分の記憶の曖昧さを思い知らされました。
いつか思い出せるだろうと、原稿を見ております。昔の原稿はこちらです。
「阿弥陀仏の慈悲のお心」
お経には、何が説かれているでしょうか。そこには、仏様になる教え、仏様の願いが説かれています。『仏説無量寿経』には、「一切恐懼 為作大安(一切の恐懼のために 大安を作さん)」と示されます。ここには、生死の苦におののきおそれを抱いているすべての人々に、その苦悩を超えて、大いなるやすらぎの心を与えてあげたいという仏様の願いが込められています。
お釈迦様は、苦悩を超える道として、二つの道を示されます。一つは、理想的人格を示し、戒律を授け、煩悩を取り除き苦悩を超えていく道。もう一つは、煩(ぼん)悩(のう)具(ぐ)足(そく)の私が、そのままで救われていく道です。親鸞聖人は、20年間にわたる厳しい修行を通し、煩悩を取り除くことは出来ない、いや煩悩こそが我が本性であると見抜かれました。そんな愚かな私だからこそ、阿弥陀仏は私を目当てに「我に任せよ」「あなたを救う」と呼びかけ願いをかけて下さっているのです。阿弥陀仏の慈悲のお心から生まれたこの願いに、親鸞聖人は自らの道を求める中で出遇っていかれたのです。
先日買い物に行くと、幼い娘さんとその母親が歩いていました。母親が先を急いでいると、後ろをついて歩いていた娘さんが転んでしまいます。母親はしばらく気づかずにいましたが、振り返って倒れている娘を発見すると娘の方へ駆け寄ります。その間、娘はじっと母親を見つめています。母親が娘を抱きしめて「どこが痛いの」と聞くと、娘は「膝を怪我したの」と大声で泣き出しました。娘は怪我をした痛みから泣くのではなく、母親の安心感の中でこそ涙することができたのでしょう。もし母親が「何で転んだの、バカだね」と言っていたら、娘は涙を流すことができずに痛みに耐えていたかもしれません。そんな光景に、阿弥陀仏の慈悲のお心を思いました。
現代の競争社会を生き抜いていくためには、立ち止まることが許されません。苦しみ、悲しみ、人に言えない内面を隠しながら走り続け、いのちが疲弊していきます。そのヘトヘトになった私のいのちに、阿弥陀仏は条件をつけることなく、「南無阿弥陀仏」の六字のみ声となって届いて下さいます。涙を我慢して頑張ろうとする私に、辛いね、悲しいねと寄り添って下さいます。泣きたい時には泣いていいよ、いつでも私の胸の中にいるんだよ、あなたのいのちの居場所になろうというのが阿弥陀仏の慈悲のお心です。そのお心に出遇ってはじめて、ホッと立ち止まり、次の一歩を踏み出す力がわいてきます。

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