天真寺通信

仏教婦人会(れんげ会)

恵信尼文書に学ぶ

今日は仏教婦人会の例会の日。本日はご法話のご縁をいただいたので、親鸞聖人のお連れ合い恵信尼様のお言葉『恵信尼文書』を通して、親鸞聖人のご生涯をお聞かせ頂きました。
今月末3日間、築地本願寺常例法話のご縁を頂いていており、今回のテーマは、『口伝鈔』『恵信尼文書』『御伝鈔』を通して、親鸞聖人のご生涯を聞かせて頂こうと決めているので、貴重なご縁となりました。やはり、机の上で勉強するだけではだめだぁと、改めて思いました。皆様の反応を見ながら、さらに学びを深めさせていただきます(感謝!!!)
こちらが「恵信尼文書」のお言葉です。
去年の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかにみ候ひぬ。
なによりも、殿(親鸞)の御往生、なかなかはじめて申すにおよばず候ふ。
山を出でて、六角堂に百日篭らせたまひて後世をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんとたづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。
さて、常陸の下妻と申し候ふところに、さかいの郷と申すところに候ひしとき、夢をみて候ひしやうは、堂供養かとおぼえて、東向きに御堂はたちて候ふに、しんがくとおぼえて、御堂のまへにはたてあかししろく候ふに、たてあかしの西に、御堂のまえに、鳥居のやうなるによこさまにわたりたるものに、仏を掛けまゐらせて候ふが、一体はただ仏の御顔にてはわたらせたまはで、ただひかりのま中、仏の頭光のやうにて、まさしき御かたちはみえさせたまはず、ただひかりばかりにてわたらせたまふ。
いま一体はまさしき仏の御顔にてわたらせたまひ候ひしかば、「これはなに仏にてわたらせたまふぞ」と申し候へば、申す人はなに人ともおぼえず、「あのひかりばかりにてわたらせたまふは、あれこそ法然上人にてわたらせたまへ。
勢至菩薩にてわたらせたまふぞかし」と申せば、「さてまた、いま一体は」と申せば、「あれは観音にてわたらせたまふぞかし。あれこそ善信の御房(親鸞)よ」と申すとおぼえて、うちおどろきて候ひしにこそ、夢にて候ひけりとは思ひて候ひしか。
さは候へども、さやうのことをば人にも申さぬときき候ひしうへ、尼(恵信尼)がさやうのこと申し候ふらんはげにげにしく人も思ふまじく候へば、てんせい人にも申さで、上人(法然)の御事ばかりをば、殿に申して候ひしかば、「夢にはしなわいあまたあるなかに、これぞ実夢にてある。
上人をば、所々に勢至菩薩の化身と夢にもみまゐらすることあまたありと申すうへ、勢至菩薩は智慧のかぎりにて、しかしながら光にてわたらせたまふ」
と候ひしかども、観音の御事は申さず候ひしかども、心ばかりはそののちうちまかせては思ひまゐらせず候ひしなり。
かく御こころえ候ふべし。
されば御りんずはいかにもわたらせたまへ、疑ひ思ひまゐらせぬうへ、おなじことながら、益方も御りんずにあひまゐらせて候ひける、親子の契りと申しながら、ふかくこそおぼえ候へば、うれしく候ふ、うれしく候ふ。
またこの国は、去年の作物、ことに損じ候ひて、あさましきことにて、おほかたいのち生くべしともおぼえず候ふなかに、ところどもかはり候ひぬ。
一ところならず、益方と申し、またおほかたはたのみて候ふ人の領どもみなかやうに候ふうへ、おほかたの世間も損じて候ふあひだ、なかなかとかく申しやるかたなく候ふなり。
かやうに候ふほどに、年ごろ候ひつる奴ばらも、男二人、正月うせ候ひぬ。なにとして物をも作るべきやうも候はねば、いよいよ世間たのみなく候へども、いくほど生くべき身にても候はぬに、世間を心ぐるしく思ふべきにも候はねども、身一人にて候はねば、これらが、あるいは親も候はぬ小黒女房の女子、男子、これに候ふうへ、益方が子どもも、ただこれにこそ候へば、なにとなく母めきたるやうにてこそ候へ。いづれもいのちもありがたきやうにこそおぼえ候へ。
この文ぞ、殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日篭らせたまひて、後世の事いのりまうさせたまひける九十五日のあか月の御示現の文なり。
御覧候へとて書きしるしてまゐらせ候ふ。

みんなでおいしいお団子をいただき、
団子
まずは一休みです。

カテゴリ

アーカイブ

天真寺日記