• 2017/01/01
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あけましてお目出度うございます

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新年あけましてお目出度うございます。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
天真寺では、朝七時から「みんなの日曜礼拝」が厳修されました。担当は龍哉です。
善導大師を讃えるご和讃「心はヒトツニアラネドモ」から六首、御文章は「聖人一流章」です。昨日は除夜の鐘がならされました。なぜ除夜の鐘は108回なのか。
■■■ミニ法話■■■
■108の煩悩の説明(新聞より)
①人間の苦悩を「四苦八苦」と表します。
四苦=生老病死=4×9=36 
八苦=生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・怨憎会苦=8×9=72
36+72=108 
②人間の感覚器官を六根(眼耳鼻舌身意)として、それぞれの良・悪・平(どちらでもない)。
 6×3=18
・六根の対象である六境(色・声・香・味・触・法)として、それぞれの苦・楽・捨(どちらでもない)  6×3=18
 それは、過去・現在・未来の三世に渡るものだから36×3=108
と言う説明があります。
親鸞聖人は、煩悩について「煩は身を煩わす。脳は心をなやます」と、現に感ずるハタラキとして煩悩を実際的に表している、我が身の事実として煩悩を捉えます。煩悩を否定するのではなく、本日の和讃「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すわはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」と示され、煩悩を抱えた苦悩の存在だからこそ、阿弥陀如来のハタラいて下さっている。そこから、御恩報謝の道を歩む世界が開かれてきます。
こちらが、伝灯奉告法要における御門主様のご親教です。

2016(平成28)年 伝灯奉告法要 【2016(平成28)年10月1日】

念仏者の生き方

仏教は今から約2500年前、釈尊がさとりを開いて仏陀となられたことに始まります。わが国では、仏教はもともと仏法と呼ばれていました。ここでいう法とは、この世界と私たち人間のありのままの真実ということであり、これは時間と場所を超えた普遍的な真実です。そして、この真実を見抜き、目覚めた人を仏陀といい、私たちに苦悩を超えて生きていく道を教えてくれるのが仏教です。
仏教では、この世界と私たちのありのままの姿を「諸行無常」と「縁起」という言葉で表します。「諸行無常」とは、この世界のすべての物事は一瞬もとどまることなく移り変わっているということであり、「縁起」とは、その一瞬ごとにすべての物事は、原因や条件が互いに関わりあって存在しているという真実です。したがって、そのような世界のあり方の中には、固定した変化しない私というものは存在しません。
しかし、私たちはこのありのままの真実に気づかず、自分というものを固定した実体と考え、欲望の赴くままに自分にとって損か得か、好きか嫌いかなど、常に自己中心の心で物事を捉えています。その結果、自分の思い通りにならないことで悩み苦しんだり、争いを起こしたりして、苦悩の人生から一歩たりとも自由になれないのです。このように真実に背いた自己中心性を仏教では無明煩悩といい、この煩悩が私たちを迷いの世界に繋ぎ止める原因となるのです。なかでも代表的な煩悩は、むさぼり・いかり・おろかさの三つで、これを三毒の煩悩といいます。
親鸞聖人も煩悩を克服し、さとりを得るために比叡山で20年にわたりご修行に励まれました。しかし、どれほど修行に励もうとも、自らの力では断ち切れない煩悩の深さを自覚され、ついに比叡山を下り、法然聖人のお導きによって阿弥陀如来の救いのはたらきに出遇われました。阿弥陀如来とは、悩み苦しむすべてのものをそのまま救い、さとりの世界へ導こうと願われ、その願い通りにはたらき続けてくださっている仏さまです。この願いを、本願といいます。我執、我欲の世界に迷い込み、そこから抜け出せない私を、そのままの姿で救うとはたらき続けていてくださる阿弥陀如来のご本願ほど、有り難いお慈悲はありません。しかし、今ここでの救いの中にありながらも、そのお慈悲ひとすじにお任せできない、よろこべない私の愚かさ、煩悩の深さに悲嘆せざるをえません。
私たちは阿弥陀如来のご本願を聞かせていただくことで、自分本位にしか生きられない無明の存在であることに気づかされ、できる限り身を慎み、言葉を慎んで、少しずつでも煩悩を克服する生き方へとつくり変えられていくのです。それは例えば、自分自身のあり方としては、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足」であり、他者に対しては、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語」という生き方です。たとえ、それらが仏さまの真似事といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられるのです。このことを親鸞聖人は門弟に宛てたお手紙で、「(あなた方は)今、すべての人びとを救おうという阿弥陀如来のご本願のお心をお聞きし、愚かなる無明の酔いも次第にさめ、むさぼり・いかり・おろかさという三つの毒も少しずつ好まぬようになり、阿弥陀仏の薬をつねに好む身となっておられるのです」とお示しになられています。たいへん重いご教示です。
今日、世界にはテロや武力紛争、経済格差、地球温暖化、核物質の拡散、差別を含む人権の抑圧など、世界規模での人類の生存に関わる困難な問題が山積していますが、これらの原因の根本は、ありのままの真実に背いて生きる私たちの無明煩悩にあります。もちろん、私たちはこの命を終える瞬間まで、我欲に執われた煩悩具足の愚かな存在であり、仏さまのような執われのない完全に清らかな行いはできません。しかし、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、私たちは他者の喜びを自らの喜びとし、他者の苦しみを自らの苦しみとするなど、少しでも仏さまのお心にかなう生き方を目指し、精一杯(せいいっぱい)努力させていただく人間になるのです。
国の内外、あらゆる人びとに阿弥陀如来の智慧と慈悲を正しく、わかりやすく伝え、そのお心にかなうよう私たち一人ひとりが行動することにより、自他ともに心豊かに生きていくことのできる社会の実現に努めたいと思います。世界の幸せのため、実践運動の推進を通し、ともに確かな歩みを進めてまいりましょう。
本願寺新報2016(平成28)年 伝灯奉告法要特集号掲載

写真は、法話会終了後、大坊守、婦人会のメンバーによるお茶のご接待を頂戴しているシーンです。日曜礼拝