• 2017/04/28
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往生浄土

浄土真宗のみ教えの、「他力本願」「悪人正機」「往生浄土」の三本柱であります。
その一つ「往生浄土」とは、文字通りに読めば「往き生まれる」ということです。阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれたものは、正定聚とならせていただきます。その正定聚の者がいのちを終えるその時に、間違いなく阿弥陀如来の浄土に往き生まれさせていただく。親鸞聖人より以前は、往生と成仏との間には段階があると考えられていました。まず浄土に往生して、そこから浄土のすぐれた環境のなかで修行をすることによって、さとりをひらいて仏となることをめざすという考えかたです。親鸞聖人は、阿弥陀如来の浄土に往生した者は、段階を経ずして、往生と同時にさとりをひらいて仏となることをあきらかにしてくださいました。このことを「往生即成仏」といいます。阿弥陀如来は、すべての人々を浄土に往生させて、仏とならせようと誓われています。
命終えゆくことを、阿弥陀如来の浄土に行き往まれるいのちであると説きます。
さらに、恩師・内藤先生によれば、
親鸞において往生という事態は、光に満ち溢れた世界に生を受けるということであり、そこにおいてはあらゆる束縛から解放され、また先だっていった人々、いったんは死別した有縁の人々と再び出会うことができるという事態を意味している。そして、往生という事態は、今現在において救いが成立していることの必然的な帰結であり、今現在における救いの成立とは、本願と出遇い、仏の光に摂め取られ、照らされ護られているということを意味しているのである。親鸞の往生思想においては、今現在の生がすでに仏の光の中に生きているという生であり、また同時にこの世の生を終えた後には、光に満ち溢れた世界に生まれ、迷いの束縛から解放され、かつ懐かしい人々との再会を期することができるというものであったということができる。親鸞の往生思想は、一切の生きとし生けるもの全ての開悟という大乗仏教の極致であり、高邁な理論をもてあそぶ観念の遊戯に堕することなく、日常生活において、泣き、笑い、怒る、普通の人々の素朴な感情に対応し、受容し、包みこむ思想であると結論づけられるであろう。
と語られています。。阿弥陀如来の浄土に生まれると、「先だっていった人々、いったんは死別した有縁の人々と再び出会うことができる」世界が待っているのです。