天真寺通信

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法話って?

銀座サロン
築地本願寺から発行されている築地新報にて銀座SALONの講義の紹介をしてくれるという。そこで、僕ら若手僧侶が取り組んできた「法話」の講義についての紹介文を考え中。先日、講義案内にて、当たり前に「法話大会」「布教大会』と記載をするが、ご縁のない方にとっては???なんだとご指摘を受けた。
8月9月の講座を「ブッダde大喜利」から「即答法話」に変更をした。その理由は、「ブッダde大喜利」という企画自体はよかったが、初見の方が、講義内容が結びつきにくいため。そのため、ご参加の皆様から頂戴するご質問・お悩みに対して、即答にて法話をする「即答法話」が方がわかりやすいだろうと。だが今度は、「法話」を別の表現できないかと思案中。「DHARMAトーク」「お坊さんのお説教」「仏さまの世界」などなど・・・そこで、インターネットにて「法話」について検索する。すると、メリシャカ!!!にて「法話とは!?」という記事を発見し、同じ悩みを持っている人はいるのだなぁと思っていたら、自分が寄稿をした文章だった!!!この文章は、30才の頃だろう、10年以上同じ悩みを抱えているかと自覚(゜Д゜)
以下、メリシャカの文章です。
今、u streamにて「ニッポン仏教夜話2010~それでも輪廻は廻っている~」を見てました。さまざまな角度からの仏教話は興味深いですね。
さて、今回の仏声人語のテーマは法話です。
昔から考えていたことがあります。それは「法話って何だろう?」ということです。
仏法を説くことを説教と言うが、浄土真宗では法話といいます。
「法話とは、阿弥陀如来の救いの法を讃嘆することです」と本願寺教学研究所のHPにはあります。仏徳讃嘆、自信教人信ということ。阿弥陀様とどんな出会いされましたか、その喜びをお話させていただくということ。といっても、実体的な存在として阿弥陀様、智慧のハタラキそのものとしての阿弥陀様、さまざまな阿弥陀様とのであいがある。考えれば考える程、わからなくなってしまう。正直私は今でも悩んでいる。

悩んでいても・・
つい数日前、3日間築地本願寺での常例法座のご縁をいただいたので、私が感じているお話をさせて頂きました。朝のお参りにて5分法話がありました。そのお話を紹介させていただき、法話について考えてみたいと思います。
まず、
西洋詩人 カールブッセの詩を引用。
山のあなたの空遠く「幸い」住むと人のいう。
ああ、われ人と尋め行きて涙さしぐみ帰り来ぬ。
山のあなたになお遠く「幸い」すむと人はいう。
旅人は、山の向こうに幸せが住むと聞き、幸せを探しに行く。
やっと幸せをみつけた思ったら、今度は又山の向こう幸せがあると聞き求めていく。幸せを求めてやまない私達人間の心を表した詩であります。
引き続き、関西のテレビ番組で見た感動したお話を紹介。
関西の報道番組をみていたら、リポーターの方が、町ゆく人に「あなたは、しあわせですか」と聞いていた。うーん。中々「しあわせです」という人にはみつからない。そんな時、ある少女が「私はしあわせです」とにこやかに答えた。そんなこんなで、彼女の家を訪問することに。実家は、島根県の離島にある一軒の家でした。そこで、リポーターの方がお母さんに質問。「どんな子育てをしましたか」。とまどう母。我が家では特別な子育てはしません。しかし、強いていえば娘を褒めて育てましたと。一般的に謙遜の思いで 「よくうちの子はできが悪い」と言うが、我が家では「自慢の娘」「立派な娘」と褒め、抱きしめて育てましたと話してくれました。そんな親の願いの中で育った彼女は、看護師を目指している。なぜならば、いつか両親も年老いて命終えていく日がくる。その時に私ができることをしたいと語っていた。
一人、居酒屋で、酒を飲みながらそのシーンを見て感動している自分がいました。
両親の願いを聞いていく中に、自らのいのちの姿を知らされる。阿弥陀如来の願いを聞かせていただく中に、私のいのちの姿を教えていただく。 私を決して見捨てない働きのことを阿弥陀様と呼ぶ。自分で自分を見捨てても決して私を見捨てないのが阿弥陀様であります。私の命は、仏に生まれていくいのちであり、計り知れない願いに願われている尊い命であることを教えて頂きます。
という話でした。
阿弥陀様の願いの中の生きる人生。それは、苦しくて悲しくて自暴自棄になる私をそっと支えてくれるいのちがあることを聞かせて頂くことであります。
という原稿でした。
多分、10年後も変わらずに同じ悩みを抱えているだろう(゜Д゜)

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