天真寺通信

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八功徳水

お盆の季節を迎えました。千葉県松戸市のエリアは、8月盆をお迎え致しますが、江戸川を超えてお隣の東京都に入りますと、7月盆にてお参りをされます。ということで、帰省ラッシュに田舎に帰っていらっしゃる方々、お墓参りに参詣される方々で賑やかなシーズンです。
昨日の日曜礼拝の担当は龍哉。讃阿弥陀仏偈和讃の最後でしたので、「七宝の宝池いさぎよく 八功徳水みちみてり 無漏の依果不思議なり 功徳蔵を帰命せよ」からお話をさせていただきました。
お話は、浄土の「宝池荘厳」です。その池の水には「八功徳水」の水で満ち満ちている。毎朝、顔を洗い、飲み水として水を活用しておりますが、その水に対して「あたりまえ」だと感謝の心を思いません。ですが、浄土の池には、きれい、飲みやすい・安心して飲めるなどの「八功徳水」の水が満ち満ちている。同じ水であったら、感謝する心がなく「あたりまえ」と受け取るのが迷いの心、「水一滴」に無限の尊さを感じ取るのが仏様の眼であります。
浄土真宗本願寺派の「わたしたちの誓い」四番目に、
一、生かされていることに気づき
日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように
とあります。一日一日過ぎゆく毎日であります。
その日常に対して、
「生きている」のではなく「生かされている」ことへの気づき、
「あたりまえ」ではなく「有ること難し、無限の尊さ」を感じ取る世界
全く違う風景がひろがってきます。
以前、読みました花岡大学さんの法話「御恩を知るくらし」を思い出します。
水道の蛇口をひねるとジャッと水が出てくる。ひねるとジャット出てくるのが「当たり前」だと思っていませんか。じゃっと出しっぱなしにしておいても、使っただけお金はこっちが払うのだから、だれに遠慮も要らないと思っていませんか。そんな水の使い方を、私たちは平気でやっているのではないでしょうか。
私は、朝、水を出しっぱなしにして、、顔を洗いながら、ハッと気が付いて、あわてて水道の水を止めました。詩人「まどみちお」氏の詩集を読んでいると、こんな詩を書いています。
「水道のせん」詩:まどみちを
水道のせんをひねると 水が出る
水道のせんさえあれば
いつ どんなところでも
きれいな水が出るものだというように
とおい谷間の取入口も 山のむこうの浄水池も
ここまでうねうねと土の中を
はいめぐってきているパイプも
それらのすべてを つくった人も
いっさい関係ないかのように
牛乳びんさえあれば 牛乳がやってくるかのように
電灯のたまさえあれば 電灯がともるかのように
水道せんひねると 水が出る
水道の蛇口をひねれば、ジャッと水が出てくるのは、「あたりまえ」ではなかったのです。お金さえ払えば、いくらむだ使いをしてもかまわないと思うのは、もってのほかです。
 ジャッと水が出てくるのには、適当に雨が降ってくれること、取り入れ口、浄水池、配水池、そして土中を、うねうねとはいめぐってきている水道管。さらにはそれらを作り保って下さる大勢の人たちの力、そうしたものの「おかげ」だったのです。そのひとつを欠いても、私たちのくらしに、ひとときもかかせない水は、一滴も出てこない。そのことにハッと気づかせてもらった時、無駄遣いはおろか、「一滴の水」のありがたさに手をあわせたい気持ちになるに違いありません。水に限った話ではありません。一切の物が、そうした目に見えないさまざまな力によって支えられていることに気づかせてもらうことを「御恩」を知るというのです。「御恩」を知る暮らしこそ、人間として真実の生き方といわねばなりません。私たちの上に加えられている無量無辺の仏の「御恩」をじっくりと考えさせてもらいましょう。
というお話です。
私たちに見ている日常の景色の背景に目を向けると、目に見えないさまざまな力によって支えられていることに気づかせてもらうことを「御恩」を知るといいます。そこから真実の世界が見え、真実の生き方が始まります。
お盆の一日。阿弥陀様、ご先祖様に想いを馳せながら、私のいのちのバックグラウンドを見つめてみましょう。すると、全く違う人生のドラマがはじまります。

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