天真寺通信

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若者の仏教離れについて

天ちゃん
新型コロナウイルス感染症の影響によって、天真寺の3月の行事は中止になりました。毎週日曜日朝7時~の日曜礼拝は、お勤めしております。
今朝も、雨の中、たくさんの方々がお参り頂き、尊きご縁であります。
外出を控えるようになっているので、この期間に、書籍を読み、仏教の学びを深める時間にしようと思います。
そこで、ただいま法話原稿を頼まれているので、諸先生方々の法話を聞き返し、昔自分で執筆した法話原稿を眺めております。インターネットサイト「メリシャカ」にて、投稿をした原稿が出てきました。皆様のご質問に答える形になっております。正直、この記事を書いた記憶は全くありません・・・
以下、記録用に。
◆ご質問
・私は今、大学で真宗について学んでいます。都会や若者の仏教離れが問題になっていたりしますが、そのことに関して、みなさんはどう思われますか(りな)
・私は大学で真宗について学んでいます。ですが、同年代の人はあまり宗教について興味を持ってないように感じます。どのようにすればもっと興味を持ってもらえるのでしょうか。(まみこ)
 
◆返答
今回は、「若者の仏教離れ」について。そうですね、ご質問のりなさんやまみこさんと同じように、私も、同じ疑問を抱いております。
まずは、自分自身を振り返ってみます。私は、仏教校ではなく、東京の大学にて法律を学びました。在学中、宗教に関する講義は必須科目になっておらず、受講しませんでした。その中で感じたことは、宗教や仏教について考えることがなかった。さらには、当時オウム真理教の事件が発生しましたので、宗教に対してむしろ不信感をもって過ごしておりました。その後、京都にて4年間を過ごしました。その時は全く環境が変わり、仏教に縁のない私にとって、「仏教とは」「真宗とは」どういう意味があるのかと疑問をもっておりました。「南无阿弥陀仏のお念仏を申すことにつきる」「生死を超える道」・・・さまざまなお言葉を頂きました。
その中で、印象に残っているのが、恩師のお言葉です。京都では、友人達とお講を開いておりました。お講では、学生達が集まり、みんなで正信偈をおつとめして、ご講師から法話を頂戴します。法話が終わった後に、質問の時間がありました。その時に、ある大学生が「若者に仏教はどんな意味があるのですか」と問いました。先生は、「ただ南无阿弥陀仏です」とお答えになります。その学生が不満そうな顔をしています。
先生は、さらに言葉を続けて、水上勉先生の話を紹介されました。 末娘・直子さんは生まれたときから脊椎分離症という病気、下半身が麻痺してうまく歩くことができない。ある時、妻からの手紙がきた。「娘・直子が歩く練習をしていたら、直子の靴の中に小さな石が入った。直子が痛いといった。そこで今日から私たちの枕元に靴と小石を置いて寝ます。下半身麻痺で痛みを感じる感覚のない直子が何とか痛覚を呼び戻してくれるようにと期待しながら・・・」とあったそうです。
水上さんは続いて、「この世の中には捨てられていいものはひとつもない。たとえそれが小石のようなものであったとしても、その小石を枕元において明日に希望をつないで歩く練習をしている親子がいる。その親子にとって、その小石はダイヤモンドと同じくらい価値がある。この世に捨てられていいものはひとつもない」というお話でした。
たとえ人から蹴飛ばされるような小石であっても、親子にとってはダイヤモンドと同じくらいの価値がある。すべてのものに意味がある。人生は山あり谷ありです。良いことばかりが続くことはありません。
けれども、一瞬一瞬すべてに意味がある。すべての経験が私のいのちとなっている。阿弥陀如来は、すべての命を救うと願いハタラキ続けて下さいます。一人苦しみのどん底にいる時も、悲しみに打ち震えている時も、どんなときも一緒に居て下さる。苦しみ悲しみは、私の人生にとっては無駄だと思ってしまうけれども、その経験こそが私を強くする、育てている事なのだと教えてもらいました。
確かに、「若者は宗教離れや宗教に関心がない」と言われますが、それは、宗教・仏教について、知らないことも原因なのかと思います。なによりも、今私が伝える事ができることが、仏様の願いの中を生かされているいのちである。私の物差しでは、無駄だと思えることでも、意味があるのだと教えてくれるのが仏教だと味わっております。。そうそう、以前、イスラエルに行った時、イスラエルの大学にて神学を教えていらっしゃる先生が、「若者のキリスト教離れが深刻だ」とおっしゃっていたのを思い出します。なにより、自分の仏教にであえて良かったと思えることをお伝えできれば良いなぁと思っております。

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