• 2018/10/20
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罪深き人々を認めていく阿弥陀如来の慈しみ

来年の銀座SALONの新春法話の講義内容を考えながら、インターネットを検索していると親戚の寺院・西方寺住職のブログがヒットしました。
浄土真宗の仏道は即身成仏ではなく、往生浄土の教え。・・・「この世で仏になれない人を認めていこう」とする考え方に立つ仏道であります。
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これは登校拒否児に対するカウンセラーの対応の仕方に似たところがある。登校拒否児にカウンセラーは、学校に行かせようと関わるのではなく、学校に行けないその人を認めていこうという考えに立ちます。学校に行かせようとする目標をすてることによって、ありのままのその人が認めていく。この世で仏になることを放棄することは同様に、仏になれない罪業深き人々を認めていこうという考え方なのです。そして罪業深き人々を認めていける働きによって、すなわち阿弥陀如来の慈しみによって、この世で仏に成れないままに、私が私の煩悩と決別する死を境として、仏にならせて戴く。
ウンウンとうなずいていると、あっという間に時間が過ぎていきます。
以下が、西方寺ブログ「仏教を楽しむ」に掲載さているブログです。
新春法話①
https://blog.goo.ne.jp/nishihara2480/e/d3c2d178c431258b89d7dbca725bf66c

以下がブログ内容です。
ネットで、点井澤恒雄という方が、私が昨年、在家仏教の例会で講話した内容を掲載して下さっていたので、その原稿に、少し手を入れて転載します。
価値観の普遍性が失われた現代の問題点井澤恒雄
浄土真宗本願寺派 柏市西方寺住職 西原祐治氏の「ありのままの自分を生きる-浄土真宗という仏道-」と題する講演。
浄土真宗という仏道は、この世では仏になれず、お浄土に行って仏になるという教えであるというと、何か積極性に欠けた教えの様に思われますが、実は、“この世では仏になれない”という教えは、“この世で仏になれない人を認めていこう”とする考え方に立つ仏道です。
これは登校拒否児に対するカウンセラーの対応の仕方に似たところがある。登校拒否児にカウンセラーは、学校に行かせようと関わるのではなく、学校に行けないその人を認めていこうという考えに立ちます。学校に行かせようとする目標をすてることによって、ありのままのその人が認めていく。この世で仏になることを放棄することは同様に、仏になれない罪業深き人々を認めていこうという考え方なのです。そして罪業深き人々を認めていける働きによって、すなわち阿弥陀如来の慈しみによって、この世で仏に成れないままに、私が私の煩悩と決別する死を境として、仏にならせて戴く。
今、体罰の問題が取り上げられているが体罰は昔から存在していたのに何故、今これ程騒がれるのか。体罰を弁護する気持ちは全くないがこの問題から見えてくる社会が気になる。
まず江戸時代に個人が努力してもどうにもならない社会だった。明治以後時代が変化して努力すれば何とかなるという状況となった。体罰が騒がれない時代は、集団とか社会が個人よりもウエイトを持っていたので、個人は集団や社会に合わせるという風潮だった。ところが近年は、集団や社会が持つ普遍的なものよりも個人の価値観が大切にされるようになって来た。
宗教は、集団や社会といった普遍的な価値を、個人の中に見出そうとするものです。現代は、この集団や社会といった普遍的なものが軽くなり、一方、個人の中に普遍的なものを見ていこうとする宗教性を薄れている時代で、今の世の中にも、個人の中にも精神的な拠り所がないという極めて不安定な状態になっています。その空白状態の中から色々な矛盾が表出している。
もう一つ、いじめの問題で気になるのは、“傷つけられたくない心理”ということ。人間の精神的な成長はH・エリクソンの理論にあるように、段階を踏んで育てられて行く。その最も基本的となるものが信頼することです。人は人を信頼するということがあって、初めて自分を信じるということが成り立ちます。現代は、他人との間での基本的な信頼関係が薄れてきているという不安定な状態であり、体罰の様に昔は受け入れらた叱責や、今の自分が否定されることが受け入れられにくいというのが現代人なのである。
昔からあった体罰で今世間が騒いでいる状況を見て、普遍的な価値観が薄れや、基本的な相互信頼が失われてしまっている現代社会の問題点を感じている。だからこそ現代は宗を必要性としていると考えるのである。(つづく)
と、2014年のブログにて、体罰について語られております。
それまで何をやろうとしていたか忘れていた自分を発見しましたので、そうだ、これから新春法話のプログラムを考え直そう!!!