• 2016/04/28
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子ども若者向け仏教イベント

報仏寺
昨日、茨城県にある報仏寺様に行ってきました。茨城県にある浄土真宗の青年僧侶達が、お寺にご縁のない方々へむけての新規イベントを立ち上げるための準備中。そこで、今まで東京にて開催してきました「僧職男子に癒やされナイト」「僧職男子のトークタイム」「グチコレ」「坊主バー」さんの活動報告のしてきました。皆さん熱心に聞いて下さいます。さすが、これから立ち上げようとする熱意は本物です。最終的には、テーラーハウスというようなネーミングとして、5月末日に開催するようです。お近くの方は、ぜひお寄り下さいませ。
この回会議の会場となったお寺さんは『報仏寺』様。いわずとしれた『歎異抄』の著者唯円房開基と言われる立派なお寺です。帰り際Tシャツを発見、購入代金2000円は復興支援金となるということで早速購入。裏にはHOBUTSUJIマークがプリントされています。帰りには、皆さんと一緒に茨城県名物「なっとう」づくし(^_^)納豆天ぷら・納豆そば・納豆オムレツ・・・美味しかったです。松戸市からも80km位なので、日帰り観光にもちょうどいいなぁと思いますので、オススメです。
以下、『歎異抄』1条~10条原文です。
『歎異抄』
第一条
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐる なりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわ ち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・ 善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑ は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。 しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべ き善なきがゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐ るほどの悪なきゆゑにと云々。
第二条
おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、 たづねきたらしめたまふ御こころざい、ひとへに往生極楽のみちを 問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存 知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめして おはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししから ば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たちおほく座せられて候ふなれば、 かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、 よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきな り。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるな り。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちた りとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげ みて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はば こそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もお よびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願 まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まこと におはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈ま ことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことなら ば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ず るところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏 をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はから ひなりと云々。
第三条
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世 のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。 この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむ けり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむここ ろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のここ ろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を とぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなる ることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往 生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰 せ候ひき。
第四条
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、も のをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがご とくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、 念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごと く衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便と おもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき と云々。
第五条
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、 いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父 母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ 候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を 回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土の さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめ りとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
第六条
専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の 候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず 候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はば こそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し 候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つ くべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのある をも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざる ものなりなんどといふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信 心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすも あるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩を もしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。
第七条
念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心 の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。 罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり と云々。
第八条
念仏は行者のために、非行・非善なり。わがはからひにて行 ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあら ざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、 行者のためには非行・非善なりと云々。
第九条
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、 またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべき ことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審あ りつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、 天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、 いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをお さへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろ しめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願 はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたの もしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、 いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくお ぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩 の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候 ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの 土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、こと にあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はた のもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそ ぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく 候ひなましと云々。
第十条
念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑ にと仰せ候ひき。