• 2016/05/26
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東西本願寺の教えは違うの?

称名   親鸞聖人は「念仏を称える」と「称」という文字を使われることが多いです。親鸞聖人が示された「左訓」(文字の解説)には「称」の横に「はかり」と示されます。念仏を称えることは「はかり」である??? 「はかり」といえども、「量る、計る、測る、図る、諮る、謀る・・・」とさまざまな「はかり」があります。長野県松本市にあるはかり博物館に行ったとき、上記の写真のようなチベットのはかりが一番古いとありました。 「はかり」とは、ものの目方をはかる道具であります。そこには、美醜・嫌悪・善悪という私の計らいは全く介在しません。ただただ、分け隔てをつけず、ただありのままの重量を素直に映すだけであります。それと同じように、私たちが称えるお念仏も、私たちの計らいを出さないで、ただ仏様の無碍光の智慧、慈悲を映す他はないとお示しになりました。 以前頂戴した、友人が住職をつとめる真宗大谷派の寺院の寺報を読んでいると、「はかり」の記事が掲載されていました。 こんな内容です。 「称える」とは、天秤や棒はかりの左右がちょうどつりあうこと。「イコール=」と同じ意味です。なぜ、イコールになるのか、我々の抱える苦しみ悩みとイコールになるのが念仏です。人間は、他人の苦しみを完全に理解することはできない。同情やなぐさめを寄せても「お前なんかにこの苦しみがわかるか」と思ってしまうこともある。他人の苦しみは、どうしても自分の経験から想像するしかないのではないか。しかし、念仏は、仏の慈悲や智慧はちょうどぴったりになる。いま感じている私たちの苦しみ・悲しみの重さにちょうどかなう。その釣り合った天秤がお念仏。もし、人生の苦しみや悲しさにあったとき、心の中で「なむあみだぶつ」と称えて下さい。必ず、そこにぴったり、イコール=の仏様の慈悲と智慧が現れてくるでしょう。 とありました。 よく仏法を語る時、本願寺派(西)は阿弥陀さまのお慈悲の側(法)を語る、大谷派(東)は衆生の側(機)から語ると言われます。確かに、お慈悲を頂いた「いま感じている私たちの苦しみ・悲しみの重さにちょうどかなう。その釣り合った天秤が念仏」とあるように衆生の側を説明されています。頂きぶりはさまざまですが、そこに阿弥陀さまのお慈悲の姿が変わらないと思うと、有り難いことだなぁと実感しました(^_^)