天真寺通信

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失われているのは人間性ではなく縁起観?

築地
築地本願寺にて「往生浄土」について研鑽。そのお昼ご飯にて、築地場外市場のお店にて友人とランチをしていると、お隣のお客様は70才台、仲良しの5名のグループで遅れて入ってきました。お客様が「熱燗はあるか?」と聞けば、「申し訳ありません、ランチにて熱燗のご用意はありません」と店員さん。すると、お客様が「これだけ待たせておいて、熱燗もないのか」と怒り心頭。その様子を見ながら、違和感を感じていました。
70才代のお客様が、このお店に行こう、そして混んでいるならば待とうと決断をして、入店をしてきました。俺は金を払うんだから、店員が接待するのが当たり前だというという認識を抱いているのだろうか。。。
そんな思いを抱きながら、東京教区教区報の一面リレーコラム「ご親教を拝して」三浦組専福寺照本さおり先生のお言葉を読んで、腑におちるお言葉をいただきました。それは、専如御門主様の「たとえ、それらが仏さまの真似事(まねごと)といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間に育てられる」という一文を頂戴してのメッセージです。
 他者に対する寛容さを失い続ける日本社会。すれ違う人と肩が触れても「すみません」の一言もなく、睨まれ、舌打ちされることも珍しくありません。先日、犬の散歩で道路を横断したら、右折してきた車に「ひき殺すぞ」と怒鳴られました。そのとき私が感じるものは、恐怖、そして怒り。向けられた敵意に怒りで応じる。私も結局、同じ凡夫の土俵にいるのです。
 社会全体が、自分と関わりがない(と思われる)存在を厳しく攻撃する傾向を強めている反面、仲間内では優しいというギャップ。失われているのは、人間性ではなく縁起観なのではないでしょうか。
 娑婆とは私が作り上げる世界です。仏智に遇い、煩悩成就と知らされつつもお浄土を心にかけていきることが、この娑婆を変えていきます。たとえ真似事であっても、真実にかなう生き方を志す。お育ては『実践』とのご教示を肝に銘じました。
念仏者の実践(お育て)とは、「失われているのは、人間性ではなく縁起観」「娑婆とは私が作り上げる世界」「仏智に遇い、煩悩成就と知らされつつもお浄土を心にかけていきることが、この娑婆を変えていく」「たとえ真似事であっても、真実にかなう生き方を志す。」というメッセージの中に、今まで『お育て』と言われてきた言葉から『念仏者の実践』という私達のあり方が問われてきているなぁと有り難きお言葉を頂戴しました。かくいう私も、隣のお客様に「なんで熱燗がないのに怒っているのかと、きつめに問いたずねてみようかと思っていました」まさに同じ凡夫の土俵の上の出来事だったのです。仏道とは学仏大悲心、仏の大悲心を学ぶことであり、まねぶことであり、私の物差しではなく真実にかなう仏さまの物差しを頂戴することであります。つねに、仏さまの分け隔てないお慈悲のお心の中に問いたずねていく歩みであったなぁと教えて頂きました。
別の角度から考えますと、アドラー心理学では、「課題の分離」といい、自分の課題と他者の課題を切り分けて考えます。例えば、「これは誰の課題なのか?」を考え、課題の分離をします。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きする。そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。この話で考えれば、店員さんのタスクは、料理を提供して、お客様においしい料理を楽しんでいただくこと。お客さんのタスクは、美味しい料理をいただくこと。しかし、この関係がグチャグチャになってしまい、「これぐらいやってもらって当たり前」だという感情が入っておかしくなっています。知らず知らずの内に、私の思考法が自己中心になってきて、悩みを深めていきます。そこにアドラー心理学では、物事のとらえ方を整理する、課題を分離することで、正しい道筋を示していきます。そのバックボーンにはアドラー心理学では共同体感覚、まさしく縁起観から生まれたとらえ方があります。なによりも、いま失われているのは、人間性ではなく縁起観なのでしょう。

写真は築地場外市場にあるラーメン幸軒のシュウマイ。テリー伊藤さんが大好きだったようです。築地場外市場はお寿司もオススメですが、ラーメン屋・幸軒、井上、やじ満(場内市場)などもオススメです。

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