• 2017/11/08
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変わる築地本願寺、そしてその歴史

築地本願寺

本日は、築地本願寺にて、築地本願寺境内整備完成慶讃法要&本願寺江戸御坊創建400年記念法要が勤修されました。産経新聞ニュースでは、新しい築地本願寺の動きが報道されました。

築地本願寺にカフェ 宗派を超えて「開かれたお寺」へ 合同墓も開設
http://www.sankei.com/region/news/171107/rgn1711070002-n1.html

今法要では、築地本願寺が元々浅草にあり、明暦の大火によって築地の地に移動してきました。その当初の本願寺江戸御坊から数えて創建400年となることを記念する法要、そして、ニュースにあるように築地本願寺境内整備完成慶讃法要が厳修されました。この度のご縁にて、築地本願寺の歴史を知ると、ご先祖の皆様、「自他共に心豊かに生きてきた」念仏者が、紡いで下さったご縁であると改めて、教えて頂きました。

まずは、法要にて配布された築地本願寺の歴史です。
■築地本願寺の歴史(赤松先生)
築地本願寺は、1617年、本山本願寺第十二代宗主・准如上人によって浅草の横山町に坊舎が創建されたことを淵源として、今年四百年を迎えた。当初は、浅草御坊と呼ばれていました。浅草御坊は、江戸幕府の諸制度の形成期に整備され、1625年に幕府から公認されます。しかし、1657年1月18日に発生した明暦の大火によて江戸市中の大半が焼き尽くされ、御坊も焼失し、死者は10万人と伝えられます。浅草での坊舎の再建は、幕府の都市改造のためにかなわず、替え地として指定されたのが、八丁堀の百間(180メートル)四方の海上でした。御坊の再建は、摂津国(大坂)から移住した佃島の漁師たちを中心とする多くの門徒が海の埋め立てを行って寺地を築き、1658年に仮御坊を建立し、その後1679年に新御堂を再建して、築地御坊と呼ばれるようになり、本堂を中心に58ヶ寺をようする寺内町が生まれました。その後も、1703年11月の大地震、1983年9月の火災、1784年の火災などがあり、天明4年の火災では、本堂含などの諸堂のみならず自注の大半も焼失しました。第十七代法如上人は、関東・東北の僧俗にご消息を発して御坊・寺中の復興を呼びかけ、その後、浄栄寺本堂の提供を受けて1795年8月に再建法要を修行しました。築地御坊は、江戸幕府の寺社奉行からの文書の受領や、寺院からの寺社奉行への願書などを取り次ぐ触頭の任にあたり、また関東の寺院を統括する役割を果たしていました。
 明治の新たな時代を迎えて、近代化に対応すべく政府との交渉、旧弊を改める教団の改革、文明化を推進する拠点として、築地別院となり、多様な活動が始まりました。しかし、以降も1872年、1893年に火災があり、1901年に本堂は木造建築で再建されましたが、1923年の関東大震災による火災によって本堂のみならず自注の多くの寺院も焼失、多くの人々が羅災しました。築地別院では救護班を直ちに開設して懸命に羅災者の救護にあたり、その中には九条武子様もおられました。本堂は1934年に東京帝国大学名誉教授で建築家伊藤忠太氏の設計によって、インドの仏教建築を模した外観で再建されました。この時、寺中の寺院の大半は築地から移転せざるえなくなり、新たな地での伝道を再開しました。
 1945年には、東京はたびたび米国軍による爆撃を受け、ことに3月の大空襲は東京を焦土化するものでありました。東京大空襲では、本堂の焼失は免れたものの、関係堂舎や多くの寺院、門徒が焼き出され、その際も築地別院は、罹災者の救護・支援の拠点となっています。
 このように、四百年に至る間、築地本願寺は、幾度もの社会の激変や大火災・大震災・大空襲による困難を極める事態に直面しながらも、本願寺の別院として親鸞聖人が開顕された浄土真宗のみ教えを多くの人々に伝え、往生浄土の道を歩む念仏者が集う拠点として歴史を刻んできました。江戸・東京の、そして東国・関東の人々から心を寄せられるとともに、お念仏に培われた豊かな伝統・文化を広く社会に定着させる役割を果たしてきました。

と築地本願寺の歴史があります。その中で、築地本願寺が浅草の明暦大火によって、浅草御坊から現在の地・東京都中央区に移動をする時、摂津国から移住した佃島の漁師たちを中心とする多くの門徒達が、海の埋め立てを行い、寺地を築いたとあります。
佃島の御門徒が大坂からやってきたことには以下のような歴史があります。(佃島にある老舗・佃煮屋「天安」さんのパンフレット)
1582(天正10年)6月2日、明智光秀が本能寺に織田信長を襲った。信長の盟友徳川家康一行は、わずかな手勢で大坂・堺にいました。今度は、明智光秀が家康をほおっておくわけがないと察知して、急ぎ三河への脱出行動を開始しました。三河とは逆の方向、大坂、兵庫の海辺へと急いだ。神崎川へさしかかった時、舟がなくて困っていた家康一行に菅谷九手持ち舟や漁船を集めてきたのが摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃町)の漁民でありました。献身的な働きは、家康にとって生涯忘れることの出来ないものとなりました。それ以来、家康と佃村の漁民とのつながりが深くなりました。1603年家康が江戸幕府を開いた時、佃村の漁民33名を江戸に呼び、石川志摩に近い島を居住地として与え、故郷の佃村にちなみ「佃島」と名付けた。

という歴史です。もとは大坂にいらっしゃった佃村の御門徒の皆様の相手を思いやる心が紡がれて、地を築き、築地本願寺を建立したということであります。東京都中央区に築地本願寺が建立された背景には、計り知れないぬくもりが込めれていることであります。改めて、お念仏の力を教えて頂いた法要となりました。